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  都庁山岳部に入る時の面接で先輩から、まず先に「松濤明を知っているか」と聞かれた。昭和38年当時の私は「風雪のビバーク」の日記のことを知っていたので、その下りを披瀝したことを今でも覚えている。当時松濤明は伝説の岳人として知られていた。また、当時の私は加藤文太郎の「単独行」を読んで傾注していたところもあり、登山年表やその記録を今日まで大切に残し続けてきたのも、その影響が大きい。先輩達の足元にも及ばない私ではあるが、登山を続けるうちに多くの登山関係の本を読んで心を打たれる登山家を知ることもできた。


平成23年 1月 笠山峠〜笠山

      3月 愛宕山、堂平山

      4月 仙元山、愛宕山

      5月 笠山峠〜笹山

      6月 愛宕山

      7月 笠山峠〜堂平山

      8月 聖高原〜三峯山、愛宕山

     10月 笠山峠〜堂平山

     11月 渋沢丘陵〜震生湖、粥仁田峠〜大霧山

     12月 笠山峠〜笹山

平成24年 2月 野沢温泉スキー場、笠山峠〜笹山

      4月 秩父高原牧場〜愛宕山

      6月 秩父高原牧場〜愛宕山

           7月 笠山峠〜堂平山

      8月 秩父高原牧場〜愛宕山、笠山峠〜笠山

                   9月 渋沢丘陵〜震生湖

       10月 秩父高原牧場〜愛宕山、弥彦山

          11月 大霧山

          12月 高麗山〜湘南平

平成25年 1月 笠山峠〜笹山

      2月 粥任田峠〜大霧山

           3月 高麗山〜湘南平

           4月 笠山峠〜笠山

           5月 愛宕山〜登谷山

        7月 笠山峠〜愛宕山 

           8月 笠山峠〜愛宕山

      10月 白石峠〜堂平山 

        12月 笠山峠〜笠山

平成26年 3月 秩父高原牧場〜愛宕山

      5月 笠山峠〜愛宕山

           7月 笠山峠〜愛宕山

           8 月 弛峠〜朝日岳〜金峰山

           9 月  堂平山〜丸山

          11 月  笠山峠〜笠山

          12 月 城山(八王子城本丸跡)

                 笠山峠〜笠山〜笹山

平成27年02月 粥任田峠〜大霧山

         04月 愛宕山〜皇鈴山

         06月  笠山〜笹山〜愛宕山

         09月 粥任田峠〜大霧山

      11月  笠山

平成28年02月 秩父高原牧場〜愛宕山

     05月 大霧山〜愛宕山

         08月 笠山〜皇鈴山

         09月 三浦富士〜砲台山〜武山

         12月 笠山〜笹山

平成29年04月 大霧山〜愛宕山

     05月 堂平山〜剣ヶ峰

     07月 笠山峠〜笠山

     09月 大霧山〜愛宕山

     12月 笠山〜大霧山

平成30年03月 笠山峠〜笠山

     05月 笠山

     12月 笠山

令和01年12月 笠山



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私が尊敬する日本の登山家

★加藤文太郎                      

北鎌〜穂高までの稜線

加藤文太郎記念図書館

加藤文太郎について:[『単独行』(遭難後、友人によって発行される)二見書房]
 生まれながらの単独行者、驚異的な山行記録、国宝的存在とまで言われた彼は、昭和11年1月3日厳冬季の槍ヶ岳北鎌尾根に向かって出発したままついに帰ってこなかった。享年31才。

<単独行について>『単独行』より

・・・・・わが国にも多くの単独行者を見いだすが、大部分はワンダラーの範囲を出ず、外国のアラインゲンガーの如く、落石や雪崩の危険のため今まで人の省みなかったところを好んで登路とし、決して先人の後塵を拝せず、敢然第一線に立って在来不能とされていたコースをつぎつぎとたどる勇敢な単独登攀者(水野氏著岩登り術)とは似ても似つかなぬほどの差があるであろう。さてかくいう単独行者はいかにして成長してきたか、もちろん他の多くのワンダラーと同じく生来自然に親しみ、自然を対象とするスポーツへ入るように生まれたのであろうが、なお一層臆病で、利己的に生まれたに違いない。彼の臆病な心は先輩や案内に迷惑をかけることを恐れ、彼の利己心は足手まといの後輩を喜ばず、ついに心のおもむくがまま独りの山旅へと進んで行ったのではないだろうか。かくして彼は単独行へと入っていったのだが、彼の臆病な心は彼に僅かでも危険だと思われるところはさけさせ、石橋をたたいて渡られるのであろう。彼はどれほど長いあいだ平凡な道を歩きつづけてきたことか、また、どれほど多くの峠を越してきたことか。そして長い長い忍従の旅路を経てついに山の頂へと登って行ったに違いない。すなわち彼こそは実に典型的なワンダラーの道を辿ったものであろう。かくの如く単独行者は夏の山から春−秋、冬へと一歩一歩確実に足場をふみかためて進み、いささかの飛躍をもなさない。故に飛躍のともなわないところの「単独行」こそ最も危険が少ないといえるのではないか・・・・・

・・・・・我々は何故に山に登るのか。ただ、好きだから登るのでり、内心の制しきれぬ要求に駆られて登るのであるというだけでよいのであろうか。そけなら酒呑みが悪いと知りつつ好きだから、辛抱ができぬからといって酒を呑むのと同じだと仕方あるまい。だから我々は山へ上ることは良いと信じて登らなくてはならない。山へ登るのが時に山を酒呑みの酒や、喫煙者の喫煙にたとえているのは実に片腹痛いのである。もしも登山が自然からいろいろの知識を得て、それによって自然の中から慰安が求めえられるものとすれば、単独行こそ最も多くの知識を得ることができ、最も強い慰安が求め得られるのではないだろうか。何故なら友とともに山を行く時はときおり山みることを忘れるであろうが、独りで山や谷をさまようとき一木一石にも心惹かれないものはないのである。もしも登山が自然との闘争であり、自然を征服することであり、それによって自然の中から慰安が求め得られるとするならば、いささかも他人の助力を受けない単独行こそ最も闘争的であり、征服後において最も強い慰安が求め得られるのではないだろうか・・・・・

   

松濤 明          

松涛明について:[『風雪のビバーク』(登歩渓流会の遭難報告書)二見書房]
 第一級の山々において、数多くの登攀記録を残した彼は、風雪の槍ヶ岳、北鎌尾根にて岳友と共に「サイゴマデ タタカウモイノチ 友ノ辺ニスツルモイノチ 共ニユク」など壮絶な手記を遺して逝った。そこには死に直面した人間の、冷静なやさしさと、澄みとおった心境がしるされていた。享年28才。

<北鎌尾根へ死の登攀>『風雪のビバーク』より

・・・・・
一月四日 フーセツ
天狗ノコシカケヨリ ドッペウヲコエテ 北カマ平ノノボリニカカリテビバーク、カンキキビシキタメ有元ハ足ヲ第二度トウショウニヤラレル、セツドーハ小ク、夜中入口ヲカゼニサラワレ全身ユキデヌレル。
 テング○:(八・一五)−ドッペウ(一一・○○)−小○:(一五・三○)
一月五日 フーセツ
SNOWHOLEヲ出タトタン全身バリバリニコオル、手モアイゼンバンドモ凍ッテアイゼンツケラレズ、ステップカットデヤリマデ ユカントセシモ(有)千丈側ニスリップ上リナホス力ナキ
 (二枚空白)
タメ共ニ千丈へ下ル、カラミデモラッセルムネマデ、一五時SHヲホル
一月六日 フーセツ
全身硬ッテ力ナシ 何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシャ、一アシ先ニオトウサンノ所へ行キマス。
何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミオユルシ下サイ、井上サンナドニイリイロ相談シテ
 (二枚空白)
井上サン イロイロアリガトウゴザイマシタ カゾクノコトマタオネガヒ
手ノユビトーショウデ思フコトノ千分ノ一モカケズ モーシワケナシ ハハ、オトートヲタノミマス
有元ト死ヲ決シタノガ 六時
今 一四時 仲々死ネナイ 漸ク腰迄硬直ガキタ、全シンフルへ、有元モHERZ、ソロソロクルシ、ヒグレト共ニ凡テオワラン
ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、ツヨクコーヨウタノム
 (七枚空白)
サイゴマデ タタカウモイノチ 友ノ辺ニ スツルモイノチ 共ニユク(松ナミ)
 
 父上、母上、私は不幸でした、おゆるし下さい
治泰兄 共栄君 私の分まで 幸福にお過ごし下さい
実態調査室ノ諸士、私のわがままを今迄おゆるし下さいましてありがとうございました
井上さん おせわになりました
荒川さん シラーフお返しできず すみません B 有元

我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体を作ル、個人ハカリノ姿 グルグルマワル 松マミ
 (五枚空白)
竹越サン 御友情ヲカンシャ
川上君 アリガトウ(松濤)

有元
井上サンヨリ 二千エンカリ ポケットニアリ
松濤
西糸ヤニ米代借リ、三升分。
 ★大町山岳博物館

★植村直巳        
                                                                                                                      

(1941―1984?)

登山家、冒険家。兵庫県出身。明治大学在学中、山岳部に属し、1965年(昭和40)明大隊隊員としてヒマラヤの未踏峰ゴジュンバ・カン登頂。1966年アルプスモンブランアフリカのキリマンジャロ登頂、1968年南米のアコンカグア登頂後、ペルーのユリマグアス(イキトス市の上流)より河口まで60日間をかけてアマゾン川(いかだ)で下った。1970年エベレストと北米のマッキンリーに登り、世界五大陸の最高峰に登頂、しかもエベレスト以外は単独登山であった。さらに1971年アルプスの難壁グランド・ジョラス北壁登攀(とうはん)後、エベレスト南壁国際登山隊に参加。1974年から1976年にかけてグリーンランドからアラスカまで北極海を単独犬ぞりで踏破、さらに1978年北極点に単独犬ぞりで到達。1980年アコンカグア厳冬期初登頂。1981年冬期エベレストに挑戦したが果たさず、さらに南極の最高峰ビンソン・マッシフに登る準備をしていたが国際情勢から断念。1984年2月北米マッキンリーの冬期単独登攀に成功、下山途中消息を絶った。

人間の可能性への飽くなき挑戦を、周到な準備と卓抜な精神力と技術で実行した世界的な登山・冒険家である。著書に『青春を山に賭(か)けて』『北極園12000粁(キロ)』『極北にかける』などがある。1978年菊池寛賞、1979年バーラー賞、アカデミー・オブ・アメリカ賞、1984年4月国民栄誉賞を受けた。                                    ●日本初めてのエベレスト登山隊に参加するも参加自己負担金を用意できなかったため荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、抜群の体力等が認められ松浦輝夫とともに第1次アタック隊に選ばれ、1970年5月11日、エベレスト南東稜から登頂に成功する。しかしこの経験で、大量の隊員を荷物運びとして使いながらほんの一握りの者しか登頂できない極地法による高所登山に疑問を持った。同年8月、エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦し単独登頂を成功させ、この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となった。

日本人エベレスト登頂者リスト


「植村直己冒険館」

植村直己・帯広野外学校

★加藤保男            
大宮市(さいたま市)生まれ。
昭和46年(1971)、日本大学文理学部体育学科卒業。ヨーロッパ・アルプス三大北壁の登攀、エベレストへ三度の登頂を果たした世界的クライマーです。また、優れた山岳写真も残しています。
 昭和41年(1966)、登山家の兄滝男(後にスイスで公式案内人となる。)の山仲間に誘われて北アルプスの前穂高岳を登ったのが、岩登りに魅せられる端緒となりました。昭和44年(1969)には兄を隊長とした登山隊の一員として、アイガー北壁直登ルートの開拓に成功しました。卒業後ヨーロッパへ登山・スキー留学。 昭和47年(1972)3月、グランドジョラス北壁、さらにマッターホルン北壁も登攀し、ヨーロッパ・アルプス三大北壁の登攀者となりました。
 昭和48年(1973)10月、日本エベレスト南西壁登山隊に兄・滝男の代役として参加し、東南稜から史上初の秋季登頂に成功しました。高所ビバークの新記録を作りますが、凍傷のため両足指全部と第1関節から先の右手中指・薬指・小指を切断しました。
 昭和55年(1980)、中国側よりチョモランマ(エベレスト)に再度登頂。 昭和57年(1982)12月厳冬期のチョモランマに東西稜から登頂を果たしましたが、下山途中遭難、行方不明となりました。
 昭和58年(1983)、大宮市(さいたま市)から市民栄誉賞第一号が贈られました。
加藤保男最後の講演
加藤保男(かとう やすお、1949年3月6日 - 1982年12月27日?)は、日本の登山家8000メートル峰に4度、エベレストに3度の登頂を果たした。エベレストをネパールチベット両側から登頂したのは世界初。埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれ。大宮市市民栄誉賞第一号を受賞。                                                 経歴1971年昭和46年)、日本大学文理学部体育学科を卒業。兄で登山家の滝男の影響で登山を高校時代に始める。在学中に大学の山岳部には入部せず、滝男が主催するJECC(ジャパン・エキスパート・クライマーズ・クラブ)で登攀経験を重ねる。                                                                1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて、アルプス三大北壁アイガーグランド・ジョラスマッターホルン)を登攀。                                                                       1973年(昭和48年)10月26日第2次RCC登山隊で、石黒久隊員とともに、エベレスト(サガルマタ)のポストモンスーン期(秋季)初登頂を果たす(ネパール側、東南稜)。日程上、強行軍であったために、サウスコル(7,986m)のキャンプからの一気の登頂であり、8,650m地点でのビバークを余儀なくされ、翌日、長谷川恒男隊員に救出される。奇跡の生還と言われたが、この時、凍傷で足指すべてと右手の指3本を失う。                                         1975年(昭和50年)、インドヒマラヤ最高峰(7,816m)のナンダ・デビ登頂。                                1980年(昭和55年)5月3日、エベレスト(チョモランマ・珠穆朗瑪)にチベット側の北東稜から登頂。                 1981年(昭和56年)10月には、尾崎隆ら三人による遠征隊でマナスルに無酸素登頂。                        1982年(昭和57年)12月27日、厳冬期エベレストに登頂を果たす(東南稜)も、下山中に小林利明隊員と共にビバーク。消息を絶つ。                                                                      1983年(昭和58年)、大宮市(さいたま市)から市民栄誉賞第一号が贈られた。 1990年(平成2年)、小惑星(5743)が加藤と命名された。


★長谷川恒男         

1947年12月8日神奈川県愛甲郡愛甲町半原に生まれる。63年、�日本コロン
ビアに入社。神奈川県立神奈川工業高校卒業。
15歳から登山を始める。69年から新潟県の明星山の岩壁に4本の新ルートを
開拓したのをはじめ、冬期登攣をつぎつぎに行い実力を養う。71年退社後、
�日本アルパインガイド協会公認のガイドとして活動をはじめる。
73年、第2次RCC主催のエベレスト登山隊隊員として初の海外登山を経験し、
標高8300mに到達。
75年、谷川岳一ノ倉沢に残された最後の冬期未踏ルート・滝沢第2スラブの
初登攣を単独で行う。
アルパインガイドとして四季を通じて活動しながら、77年から79年にかけ
てヨーロッパアルプス3大北壁の冬期単独登攣を世界で初めて達成。
81年、南米大陸最高峰のアコンカグア南壁の冬期単独登攣に成功。そめ後チョ
モランマをはじめとするヒマラヤでの困難な登撃に挑みつづける。
91年10月10日パキスタン・ウルタル�峰登山中、雪崩により遭難。享年43歳。
登山年譜
1973年ネパール・エベレスト(8848m)
1977年マッターホルン北壁シュミットルート冬期単独登撃
1978年アイガー北壁冬期単独登攣
1979年グランドジョラス北壁ウォーカー稜冬期単独登攣
1980年アンデス・アコンカグア北面ノーマルルート冬期単独初登頂
1981年アンデス・アコンカグア南壁フランスルート冬期単独初登攣
1982年バタゴニア・フィツロイ北東壁新ルート試登
1983年ネパール・ダウラギリ�峰(8167m)北東稜(ポストモンスーン)
1984年パキスタン・ナンガパルバット(8125m)南東稜(プレモンスーン)、
   パキスタン・ナンガパルバット中央側稜単独(ポストモンスーン)
1985年中国・チョモランマ(8848m)北東稜(ポストモンスーン)
1987〜88年 中国・チョモランマ北東クーロワール(冬期)
1988年中国・チョモランマ北東クーロワール(冬期)
1990年パキスタン・ウルタル�峰南西壁  
1991年パキスタン・ウルタル�峰南西壁

右が長谷川恒男氏が遭難した山
★小西政継                    
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