中央大学

思い出の記

法学部都心展開を軸とした中央大学の展望

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惜別の歌 中央大学の学生歌 歌うは緑咲香澄 - YouTube

中央大学 校歌・応援歌・学生歌

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中央大学校歌

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中央大学 校歌・応援歌・学生歌

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中央大学
 

 昭和38年3月に中央大学を卒業したが、卒業後、暮らしていく中で母校を意識したことはほとんどない。正月の風物詩となっている箱根駅伝競走は母校を意識して在学中から現在まで応援している。在学中は横溝選手や南館選手が活躍して母校が連覇を重ねていた一番華やかなりし頃で、ラジオの実況放送を聴いてイメージしながら応援していた。今はテレビの生の映像を見ながらこちらも声を出して応援している。      ★65歳を過ぎたあたりから一線を退いているクラスメートからクラス会をやらないかと誘いを受けたり、学員会「白門三八会支部」から同期会の案内が届いたりしたことから、母校を意識することもしばしば。                       ★振り返ってみれば、記録に残すことが得意な私であるが、在学中の記録も何回も引越しを繰り返したことで、その度に整理してしまったことから卒業アルバムと卒業証書以外は忘却の彼方へ流れ去ってしまったことは言うまでもない。平成25年2月に「白門三八会支部」から同期会の案内をいただいたことを契機に、改めて残っている記憶を集め、卒業生53万人、我々の同期生5学部合わせて8100人を超える巨大化したマスプロ大学であるが、当時の母校を振り返りながら編集してHPに掲載する。










私もこの中にいます

★思い出の校舎=ヨーロッパ風の建築様式を取り入れた校舎は、広い中庭があり、中庭を取り囲む校舎の中庭側に回廊がある。出入り口もロマネスク様式を感じさせるような作りになっており、如何にも西洋文化を受け入れてきた明治時代の名残の建物の雰囲気を醸し出している。しかし、東側は新しい建物が増築されており、古いものと新しいものがマッチしていないと入学した当時から感じていた。ここで一番の撮影ポイントは図書館の入口である。そのような校舎で4年間学んできたので、今は陰形もないが、私にとっては記憶の中の思い出の場所でもある。

★校歌はここをクリック

中央大学のあゆみ

中央大学は1885(明治18)年7月、東京府神田区神田錦町2丁目2番地に、英吉利法律学校として創設されました。創立者は、増島六一郎、高橋一勝、岡山兼吉、高橋健三、岡村輝彦、山田喜之助、菊池武夫、西川鉄次郎、江木衷、磯部醇、藤田隆三郎、土方寧、奥田義人、穂積陳重、合川正道、元田肇、渡辺安積、渋谷慥爾の18人の少壮法律家といわれています。                            

明治維新後、わが国では文明開化のスローガンのもと急速な西洋化が進んでいました。そうした状況の中で、法律関係の高い学識が求められるようになり、法学教育への需要も高まっていました。
増島らは、いまだ欧米先進諸国のように体系化された法典を持たない日本にあっては、欧米列強の模範国としての地位を占めていたイギリスのような慣習法の国を自らのモデルとし、実社会と密接に結びついた英米法を学ぶことこそが「法律実地応用ノ道」に達する最良の方法であるという固い信念を抱いていました。
創立者たちは、そのために必要な講師の充実、書籍の刊行、図書館の開設を設立趣旨の中に謳い、英吉利法律学校での法学教育をつうじて近代社会にふさわしい人材なかんずく法律家の育成をめざしました。

★英吉利法律学校新校舎=設立当初の校舎は旧旗本蒔田家の屋敷で、約800坪の敷地にあった家屋300坪余を教場としました。同年910日に開校した同校の初代校長には増島が、また幹事には渋谷慥爾が就任しました。
1889
1月、凹字型の煉瓦造2階建て新校舎が完成し、施設の拡充が図られました。その年の10月には幅広い法学教育をめざして校名を東京法学院と改称しました。院長は当初増島が努めていましたが、18914月に菊池武夫と交替しました。
 この校名変更は、時代の趨勢に応じて、わが国の法律を既設の学科目に加えて教授することを意図していたと同時に、東京医学院および東京文学院と連合して本邦初の私立総合大学をめざした布石でもありました。
この計画は折から民法・商法をめぐる論争の影響もあって実現しませんでしたが、法典論争では本学を拠点とした実施延期派が「法理精華」に論陣を張って、政府が起草した法典への批判論文をつぎつぎと発表しました。そのため同誌は、18907月に発行禁止処分となりました。その9ヵ月後、東京法学院は、「法理精華」の編集方針を受け継いだ「法学新報」を新たに創刊しました。以後、法学新報は現在に至るまで継続刊行され本学を代表する機関誌となっています。

1892年、本学は神田大火により校舎を全焼し、高橋法律文庫など貴重な財産を失いましたが、神田一ツ橋の帝国大学講義室に仮教場を設けて、同年8月の校舎再築までここで授業を続けました。
1903
年、社団法人東京法学院大学が設置認可され、専門学校令により東京法学院大学と改称し、菊池が学長に就任しました。
 1905年に至って校名を中央大学と改称し、経済学科を新設しました。この年は創立20周年に当たり、教職員・卒業生が一丸となって記念講堂の建設、記念式典が盛大に行われました。
1909
年にはまた新たに商業学科が設けられ、法学、経済学、商学の3学科を有する大学となりました。
19176月、今度は失火のため再び校舎・図書館を全焼、奥田文庫(ビルクマイヤー文庫)を失いましたが、翌19188月校舎を再築することができました。この年、大学令が公布されると本学はそれに対応して翌年社団法人中央大学の解散と財団法人中央大学の設立を決定しました。
1920
年、大学令による中央大学の設立認可を受け、法学部・経済学部・商学部・大学院・大学予科を擁する旧制大学の体系が整えられました。
1923
9月、関東大震災に罹災し、三たび校舎を焼失。その復旧をはかりましたが、さらなる発展をめざした本学は、19268月駿河台校舎を完成させ、神田錦町から駿河台へと移転し、以来50年余この地において充実発展してきました。

★駿河台校舎=1931年、夜間学部を開設、また1944年には工業専門学校を新設、さらに1948年には通信教育部(法)を開設しました。
1949
年、学制改革にともない新制大学が発足、工業専門学校を廃して工学部を新設しました。1951年には、文学部および新制大学院を設置したほか、この年財団法人中央大学から学校法人中央大学へ組織変更がなされ、さらにまた1962年には工学部を理工学部に改組しました。

★多摩キャンパス=19784月、教学施設充実計画にもとづいて文系4学部(法・経済・商・文)は多摩校地へ移転し、また理工学部は後楽園キャンパス(文京区春日)を増築してこの計画を完了しました。
1985
年、創立100周年を迎え、1988年には100周年記念事業の一環として駿河台記念館が落成しました。その後、1993年に総合政策学部を多摩キャンパスに新設し、さらに2000年には市ヶ谷キャンパスを開設して2002年に国際会計研究科(アカウンティングスクール)を、2004年には法科大学院(ロースクール)を開校しました。そして2008年には、後楽園キャンパスに戦略経営研究科(ビジネススクール)を開校しました。120年余の歴史を誇る本学は現在6学部、大学院8研究科、専門職大学院3研究科のほか、9研究所、4附属高等学校、2附属中学校を擁する総合大学となっています。

 

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