大学時代の資料で残っているのは卒業アルバムと卒業証書のみであるが、登山、スキー及び旅の記録の中に一部残されているので紹介します。
★昭和35年7月1日〜3日 上高地〜徳沢園〜奥穂高岳
中央大学2年生の体育授業の一環として、初めて北アルプスの重鎮「奥穂高岳」に登ことになった。その入口である「上高地」という地名には忘れられない思い出がある。中学時代、国語の教科書に上高地の紀行文が紹介されていた。クラスメートがその地名を読めなくて、年老いた女性教師が「上」という字は、外になんと読みますか。君の住所にありますよねとヒントを出して「かみ」と読みます。「高」は県名でありますよと教えてながら、初めて「かみこうち」と読みますと教えてくれた。また、「景色の素晴らしい所である」ことを教えてくれた。それ以来、一度は訪れたいと思っていたので期待していた。その景色の素晴らしさは私を裏切らなかったことは言うまでもない。登山は徳沢園にテントを張っての宿泊なので、夜はテント仲間とおしゃべりしたり、歌を唄ったり楽しかった。徳沢園から穂高岳を目指し横尾本谷に架かる丸太の橋を渡って横尾谷を詰め左手に高度差600mの屏風岩を見ながらの登山は圧巻だ。涸沢小屋から雪渓を踏みながらザイテングラードを詰めて穂高小屋に出るのだが、ここの登りが疲れもピークに達し一番つらいのに、我々をリードする大学の山岳部員の威張り散らす、その言葉使いときたら頭にくることばかり。ザイテングラードの終わりから小屋までの間は雪渓で滑ったら下までと思うと、神経を集中させふみ跡を一歩一歩踏みしめながら小屋の前に出た時はほっとした。天候は悪く展望は利かない。その夜、私は高山病に罹ってしまい、責任者からロッシュのサリドンをもらって飲んだ回復することが出来た。翌日の天気は回復して展望よしで言葉は要らない。小屋から奥穂高岳に梯子を登りと岩を攀じり山頂に立てた時の感動は何ものにも変えがたい思いであった。それから涸沢岳に登って下山してきた。山頂からの展望は素晴らしかった。これが北アルプスの私の第一歩である。
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体育の履修で北アルプスの穂高岳に登るため、「氷壁」の舞台となった徳沢園にテントを張り、過ごした2日間の夜は、「惜別の歌」と「伊豆逍遥歌」をみんなで何回歌ったことか。これがベースになって今でも歌うことがある。
中央大学に関係する歌は、中央大学校歌、中央大学応援歌、中央健児の歌、惜別の歌、伊豆逍遥歌の五歌があるが、惜別の歌」以外はほとんどの歌は忘れてしまった。「惜別の歌」は戦場に赴く若者への惜別の思いが込められていることから心に響き忘れることはできない。
「惜別の歌」をYoutubeからお聞き下さい。
『惜別の歌』は中央大学の学生歌です。
この『惜別の歌』は中央大学の学生にとっては『蛍の光』にも代わる歌とされ、親しき友と別れる時、別れ難き心情に駆られた時、この歌を歌って別れるのを常としています。また、卒業式歌として卒業生以下出席者全員が起立して厳粛に歌う大切な歌となっております。
『惜別の歌』は昭和20年、中央大学予科生の藤江英輔(ふじええいすけ)氏の作曲で、作詩は島崎藤村の「若菜集」の「高楼(たかどの)」の詩です。東京板橋の陸軍造兵廠第三工場に学徒勤労動員中、戦地に赴く学友を送る歌として作られました。いつしか造兵厰で、出陣学徒を送る歌、惜別の歌になっていました。工場で一緒に働いていた他校の男子学生や東京女子高等師範等の女学生らもみんなこの歌を覚えてくれて、戦後、彼らが上の大学に行ったり、地方へ帰ったり、教師として赴任先で歌ったりして、全国に広がったとのことです。また、この『惜別の歌』は中央大学の後輩たちへと受け継がれて学生歌として定着していきました。昭和26年の夏ごろ、中央大学の音楽研究会・グリークラブが、『惜別の歌』のレコーディングを企画した際、この第1節3行目の歌詞は「悲しむなかれ我が姉よ」で遠方へ嫁ぐ姉を思う姉妹愛の詩でありましたが、この「姉よ」を「友よ」と替えて広く愛唱されて来たため、レコードに吹き込むには原詩の著作権者の諒承が必要でした。偶々藤江英輔氏が勤務先の新潮社で島崎藤村の遺児翁助氏と面識があり、翁助氏より改作の追認を受けたとのことです。昭和30年頃より各地の盛り場に「歌声喫茶」が続々と出現して、この『惜別の歌』も全国の「歌声喫茶」で大いに歌われました。レコード会社は「歌声喫茶」に着目してリクエスト回数の多い歌を次々にレコーディングして売り出していました。『惜別の歌』も昭和36年に小林旭のレコード発売に伴い作曲者探しがありましたが、レコード会社の訪問が発売予定の1週間前だったため、楽譜に書いた『惜別の歌』は『惜別の唄』となっており、歌詞の4番が削られて3番までとなっていました。「もう発売を待つばかりです」と言われては否も応もなく、断る余地は残されていなかった。こういう形で世に出たのもやはり何かの�めぐり合わせ�だったかもしれない、と藤江英輔氏は述べられております。小鳩くるみさんの素晴らしいソプラノに心が洗われる気持が致します。ただ、原詩「高楼」の通り「姉よ」と歌われているのが誠に残念です。
作曲:藤江英輔(ふじええいすけ) 作詞:島崎藤村
1.遠き別れに 耐えかねて 3.君がさやけき 目の色も
この高楼(たかどの)に 登るかな 君くれないの くちびるも
悲しむなかれ 我が友よ
君がみどりの 黒髪も
旅の衣を ととのえよ
またいつか見ん この別れ
2.別れと言えば 昔より 4.君の行くべき 山川は
この人の世の 常なるを
落つる涙に 見えわかず
流るる水を 眺むれば
そでのしぐれの 冬の日に
夢はずかしき 涙かな 君に贈らん 花もがな
★惜別の歌【穴沢利夫追悼FLASH】惜別の歌 中央大学学生歌
(Sekibetsu-no-uta Chuo Univ. College
Song) - YouTube⇒ここをクリック
★昭和38年2月16日〜18日 神城スキー場
中央大学の生活共同組合のスキー教室が、卒業試験日と重なるため卒業に必要な最低科目に絞って試験を早く終わらせてしまった。パスしなければ追試験覚悟でのスキー教室の参加である。甲州街道を遡っての夜行バスにはきついものがある。宿は大糸線の近くにある大きな農家である。ここからスキー場まではそれなりの距離がある。行きはスキーを担いでの上りだが、帰りは滑って来られるので三日間苦にならなかった。
何しろ、このスキー場のゲレンデにはエンジンで動かすスキーリフトが2本しかないが、遠見尾根の麓にあるので後立山連峰の眺めが素晴らしいの一言に尽きる。今回のスキーで習いだして6回目となるので、思い切ってフティ付きの新しいスキーにした。それに加えて昭和電工塩尻工場に勤めているスキー指導員の教え方が上手で、私も知らない間に山回りクリスチャニアが出来るようになったら、それをつなげてシュテムクリスチャニアで回転できるまでになった。三日間の講習会で一段と進歩したことは言うまでもない。宿に帰ってくると指導員が一人ひとりアドバイスしてくれ、「スキーは山回りクリスチャニアに始まり、山回りクリスチャニアで終わる」が口癖だった。私も指導員の言葉を肝に命じてこれからも頑張りたい。当時の写真は1枚もなし。記憶の中にあるのみ。
当時のゲレンデの図
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