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埼玉県立歴史と民俗の博物館
(平成23年11月29日)
いきがい大学春日部学園14期校友会23年度事業として、企画部・ハイキングクラブ合同ハイキング「大宮公園周辺」に参加した。その一環として盆栽村を訪れた後、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」を訪れた。埼玉県立歴史と民俗の博物館は、歴史と民俗を中心にした歴史系総合博物館。前身は1971年に現在地に開館した埼玉県立博物館で、2006年に埼玉県立民俗文化センターと統合して現名称となった。今年で開館40周年である。40周年と言えば、私が所属する港区職員退職者会も40周年を向かえことを思うと、40周年と云う区切りには感慨深いものがある。今回、特別展はなく常設展のみの見学であったが、ボランティアガイドの説明があり、展示物の理解が深まったことは言うまでもない。ここのボランティアガイドには私が卒業したさいたま市シニアユニバーシティ卒業生の大勢の方が関わっている。見学前に昼食をした時に隣のテーブル昼食していたのもその方々だったのでお話しすることが出来た。みなさん生き生きした目で熱く語ったのが印象的だった。ここの博物館の特徴は常設展で「埼玉における人々のくらしと文化」について、★第1室「旧石器時代〜弥生時代」(約30000年〜1700年前)、★第2室「古墳時代」鉄剣は語る(約1700〜1300年前)、★第3室「奈良〜南北朝時代」武蔵武士誕生(約1300〜650年前)、★第5室「室町〜戦国時代」乱世に生きる(約650〜400年前)★第6室「板碑」武士の心(750〜400年前)、★第7室「江戸時代1」幕府の支配と村のくらし(約400〜150年前)、★第8室「江戸時代2」社会の成長とゆらぎ(約400〜150年前)、★第9室「明治時代〜現代」激動の時代をこえて(約150年前〜現代)に分かれて、埼玉の歴史を時間別に追って見られるのがいいところだ。
さいたま市大宮盆栽美術博物館
(平成23年11月29日)
いきがい大学春日部学園14期校友会会員の私は2班に所属し、12名の卒業生も7名と減少したことや、7名の中には伊奈学園校友会で活動している人が4名もいることから、特別に班活動はしないで14期校友会関係の行事に参加し、校友会活動を盛上げることをモットーにこの一年間活動を続けることにしている。今日はいきがい大学春日部学園14期校友会23年度事業として、企画部・ハイキングクラブ合同ハイキング「大宮公園周辺」に参加した。その一環として盆栽村を訪れた後、2010年に世界で初めての公立の「盆栽美術館」として開館した「大宮盆栽美術館」を訪れた。私は2回目であるが、今回の参加者10名の中には始めての方もいるので私が案内役を務めた。 ★名高い大宮の盆栽村に近接して設けられた美術館は、旧高木盆栽美術館のコレクションをひとつの核とした盆栽の名品、優品をはじめ、盆栽用の植木鉢である盆器や、一般には水石と呼ばれる鑑賞石、盆栽が画面に登場する浮世絵などの絵画作品、それに、盆栽に関わる各種の歴史・民俗資料等を系統的に収集、公開し、さいたま市の伝統産業にも指定されている盆栽の文化をひろく内外に発信することを目的として、活動していくことを目的としてオープンしている。活動の柱として次の三つのことを掲げているとか。 1、盆栽と盆栽を取り巻くさまざまな伝統技芸の歴史や意義を、美術史や工芸史、園芸文化史などの多様な観点から調査・研究して、得られた高度な成果を展示活動や出版物を通じて、わかりやすく公開していくこと。また、展示事業ばかりではなく、各種の講座、講演会などの普及事業をも積極的に展開して、盆栽文化に親しんでいただくための機会を、年間を通じて常に開催していくこと。その上で学際的な盆栽研究の確立を目指す。 2、鉄道博物館と並ぶさいたま市の新たな名所として、市民の方々はもとより、国内外から当市を訪れる方に、盆栽の素晴らしさ、面白さに気軽に触れていただくための主要な観光の拠点とすること。 3、盆栽美術館の観覧をきっかけに、盆栽村を中心とした市内各所の盆栽園を訪れていただき、盆栽の奥深さをより味わうなかで、伝統産業としての盆栽業の力強い応援団となっていただくための、いわば水先案内人を務めること。 ★みなさん、盆栽の美しさに見惚れていました。館内は写真撮影禁止ですが、庭園の中に一箇所盆栽を入れて撮影OKの場所があり、その開放感を満喫していました。
美術館めぐりを趣味としている私は、地方に出掛ける場合には必ずインターネットでその町の美術館等がどこにあるのか調べ時間をさいて訪れているのが常である。今回は全国自治体退職者会第40回定期総会があったので、会議に出席する前の時間を利用して美術博物館を訪れた。
★松代の池田満寿夫美術館
群炎展
(平成23年10月7日) 昨年の文化の日に「プラザノース」で群炎展が開かれていたので覗いてみた。その時はどんな美術団体か知らないが、群炎美術協会は昭和37年に日本橋三越で東京芸大出身者が中心になって「具象展」を開いたのを切っ掛けに、既成の美術団体にはない自由な創作発表を旨とする個性重視の闊達な団体を設立し、東京都美術館を展覧会会場として半世紀を迎えようとしているが、今年から会場をここに移したらしい。 (1)絵画、(2)工芸、(3)人形美術の3部門からなり、それぞれ作品を広く一般、会員から募集している。群炎美術協会の理念は「個性を尊重し、展覧会を通じ各自の美術に対する主観的態度の確立を期し、もって、『日本美術』の進展に寄与すること」とするとしている。作品の作風に「師匠<==>弟子」という因習にとらわれず、個々人は自由闊達を基本姿勢として作品制作に励んでいるとのことだ。 ★今年は第50回展をプラザノースで開催したので見に行った。今回の展示作品は193点。一般公募41点である。大規模なメジャーの公募展とは違って、規模が小さいことから、このような街中で身近なところで開くことで、作品がどうのこうのと云うことではなく、身近で美術作品のよさに触れてもらえることが素晴らしいことだ。日常生活の中で作家の作品を飾るというよりも、自分の作ったものをインテリアとして飾り生活に潤いを持たせるヒントもこのような美術展にはある。 ★今回、特に印象に残ったのは、3月11日の東日本大震災、特に大津波による沿岸部の集落を飲み込んでしまった被災跡地の風景が大勢の人の脳裏に焼き付いており、それを作品にした2点が私の目に止まった。1点目は及川 孝さんの「爪痕」。2点目は、盛山重信さんの「慟哭の譜」である。その他には、山田孝子さんの「鹿島槍ヶ岳」である。この山は登らねばと思いつつも未だに、その夢は達成されていない。つぎに写真美術で中野澄子さんの「ゆらぐ」で写真というよりもフリーハンドのデザインに近いものがある。美術鑑賞が趣味の私も今年は、都内に出る機会が少なくなったことから、次第に足も遠ざかり、身近なマイナーな美術展に行くように切り替えた。
★空海と密教美術展 ★麻績村・信濃観月苑「猫展」 ★田淵行男記念館 ★三菱1号美術館
HIGHT SIFT EXIBITION展
(平成23年6月13日) ★職場の先輩で元デザイナーだった人がいる。その人はデザイナーから出発して余りの忙しさに耐えかねて、体調管理のことなどもあって我々の職場に転職してきた。とはいってもその分野で輝いていた部分は、ここでも遺憾なく発揮していた。今から20数年前にパソコンでHPなどを取り入れるなど最先端を走っており、当時その研究会を作ろうとしたが誰もいなかったという。彼はそのパソコンを駆使して自分の得意とするデザインを作り出している。それは個人的に豊かな感性に恵まれていたからこそ、定年退職後も今日に生かされて、年何回か展覧会を仲間と開いている。時々私も作品を見に行っている。 ★そんなことから彼に、私が役員をしている港区職員退職者会が40周年を迎えたので、毎年発行している「お元気ですか」の表紙絵をお願いした。それから間もなく彼から仲間との展覧会のハガキが送られて来た。会場は以前訪れたこともある銀座裏通りの小さなギャラリーである。そこは関東大震災後に立てられた建物であり、幾つもの小さな部屋が沢山あり、その小さな部屋の殆どが自分の作品展を開いている人ばかりだ。エレベーターも手動で二重ドアを締める古典的なものには驚く。ゆったりとした音楽が流れ狭い部屋であるが故なのか、自然と心が落ち着くから不思議だ。先輩の会場も5階の6畳位の小さな部屋で三人の作品が剥き出しの壁に掛けられている。本当に数が少ないので部屋に見合った作品展である。作品はともかくここを訪れるのは、お知らせを貰ったお友達だけであろうが、本人達には自分の作品展を開いたという満足感があるのであろう。
憲政記念館を初めて見学する
シニア大学の史跡クラブで国会議事堂と憲政記念館を見学を実施した、原稿を編集して校友会だよりに掲載したことから、自分も一度は訪れてみたいと思っていた。今回、いきがい大学伊奈学園専科一期校友会郷土の会で、クラスメートの姪御さんが参議院議員の秘書をしていることから、この二つの見学が実現した。憲政記念館は国会議事堂の目の前にある。1970年(昭和45)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、1972年(昭和47)3月に開館している。1952年(昭和27)にこの土地は衆議院の所管となり、1960年(昭和35)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設された。その後これを吸収して現在の憲政記念館となった。 ★ここは、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示するほか、特別展などを催している。なんと言ってもここを有名にしたのは尾崎行雄である。どんな人物かと言えば、私もそれほど詳しく知っているわけではないが、尾崎行雄は政治家として、東京市長、日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれていたことや、号は咢堂で、称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民、憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設され銅像も建立されていること位である。周りは緑が多くゆったりしていて落ち着く場所であることは間違いない。 ★1Fには議場体験コーナーがあり、議席に座って見ることもでき、また、演壇や議席で自由に記念写真を撮ることもできた。
また、憲政史シアターでは、議会思想が移入された幕末から明治維新、帝国憲法の制定、帝国議会の開設を経て、戦後、新憲法の制定によって新しい国会が発足し、今日に至るまでの「憲政の歩み」をハイビジョン映像で見ることができる。
重要文化財・旧岩崎邸を見学
(H23.6.6)
平成17年11月4日、妻と横山大観記念美術館に行ったが生憎の休館日だったので旧岩崎邸庭園を訪れている。その後、平成20年6月25日、さいたま市シニア大学大宮校六期校友会六班の人たちを案内した。今回で3回目になる。この館も日本近代建築の祖と言われるイギリス人のジョサイア・コンドルの設計によるものだ。みなさんはガイドさんについて説明を受けているが、私は些か草臥れてしまったことや日本家屋は工事中で見れないこともあって、二階のテラスで一人のんびりとぼっとしていた。今回はジョサイア・コンドルのことを紹介することにした。 ★ジョサイア・コンドル(1852年9月28日
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1920年6月21日)
はイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。河鍋暁斎に師事して日本画を学び、趣味に生きた人でもあった。 ★主な作品]
1879年 訓盲院 -1923年関東大震災により大破。現存せず。
1882年 旧東京帝室博物館本館 -1923年関東大震災により大破。現存せず。
1884年 有栖川宮邸洋館 現存せず。
1884年 北白川宮邸洋館 現存せず。
1889年 岩崎弥之助深川邸洋館-現・清澄公園内、1923年関東地震により焼失。現存せず。
1894年 旧海軍省本館(現在の霞が関の中央合同庁舎第1号館の位置にあった)-1945年 東京大空襲により焼
失。現存せず。
1894年 三菱一号館 -1968年取壊し、2009年レプリカ再建。
1895年 三菱二号館 -1932年取壊し、跡地は明治生命館。
1896年 三菱三号館 -現存せず。
1896年 岩崎久弥茅町本邸(現・旧岩崎邸庭園洋館および撞球室、重要文化財)
1897年 ドイツ公使館(現在の国立国会図書館東京本館の位置にあった)-1945年東京大空襲により焼失。
現存せず。
1908年 ウェスト像台座(東京大学本郷キャンパス構内)
1910年 岩崎弥之助家廟
さいたま市シニアユニバーシティ校友会連合会
★第16回合同墨彩画展
H23.2.7ニューシャトル鉄道
鉄道博物館見学に期待しています
大方の男性は、小さい頃、電車を見るのが好きだったのではないでしょうか。大きくなったら何になるのと聞かれると「電車の運転士」と口にした幼き日の自分がよみがえってきます。私も小学生から高校生になるまで友達とよく陸橋から電車や機関車の通過を見送ったものです。そのうちに模型の電車を買って、箱庭にレールを敷いたり、トンネルを作ったりして楽しんだ風景が昨日の出来事のように蘇ってきます。電車の運転士にはなれませんでしたが、就職してからは鉄道の旅を楽しむようになり、乗ったところを赤線で埋めるように日本地図に書き入れてきましたが、日本国有鉄道公社が民営化されたことで廃線になった線も多く回りきれませんでした。それでも赤線が全国一周しています。 ★また、妻のお父さんが満州国を走った「特急アジア号」の機関士であったこともあって、鹿児島から上京するたびに、北区の飛鳥山公園にあるD51機関車を見に行き、機関車の運転席に座って機械について説明を受けました。蒸気機関車の運転席はそれなりの空間がありますが、碓氷峠鉄道文化村や青梅の鉄道公園を訪れて電気機関車の運転席に入ってみると、そこは圧迫感を覚えるような狭さには驚きました。伊奈学園に通うようになってから宇都宮線
私の一番好きな東海道線「特急こだま」。昭和33年春に東京駅で初めて公開されたときに見学に行きました。 |
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