H21〜23年

 

令和2年3月末日でいきがい大学伊奈学園の廃止に伴い、「伊奈ネットクラブサーバー」を令和4年末日で廃止しため、

大阪の「さくらサーバー」に移行しましたが、残念ながら大部分のPDFの部分が表示されていませんので、冊子のPDF

を新たに貼り付けましたのでご覧ください。

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2011年を振り返って

H23.12.31

わが定年退職後の学び

H23.12.5

何事も積み重ねである H23.11.8

私の俳句を詠む切っ掛けとなった原点

H23.10.8

定年退職後一番の贈物

H23. 6.10

4

▲▲▲「山には友情がある」が故にHPを開設

H22.12.31

3

▲山に来て亡き友偲ぶ秋の暮

H21.12.31

2

「歴史と文化の香る街・川越の歴史」を学ぶここをクリック

H21.11.17

1

点の記と剣岳ここをクリック

H21.07.13

 

私は毎年、大晦日の夜、「この一年を振り返って」というタイトルで一年間の思いを綴ることが恒例となっています。国内外大変厳しい状況が発生しているにせよ、2011年は何と言っても忘れられないのは、311日宮城県沖を震源とするマグ二チユード9.0の巨大地震災害と太平洋沿岸各地に押し寄せた大津波による未曾有の災害。それに加えて巨大地震と津波が東京電力福島第一原子力発電所にも襲い掛かり、全ての電源が破壊されて原子炉を冷却ができずに水素爆発を誘発させ、放射能を放出する重大な事故が発生し、東北を中心に北海道、関東、中部までの広範囲に被害をもたらしことです。埼玉県では狭山茶に大きな被害を受けました。           ★3月11日の私は、いきがい大学校友会連絡協議会主催「社交ダンスの集い」に向けて、東岩槻の体育館で練習している時に遭遇しました。その時、体育館の天井に吊るされている防球ネットと照明器具がギシギシと音を立てながら揺れだし、みなさんは体育の入口付近にいたのですぐに屋外に避難しましたが、私は体育館の一番奥にいたので天井の落下を考え屋外への避難を止めて、直ぐに太い柱が何本もある倉庫に避難し、不安顔で防球ネットと照明器具の今にも落ちそうな大揺れを見ていました。地震が収まってから屋外に避難し、車で家に帰りつくまでの道中、瓦葺の尾根が落ちている光景があちこちで見受けられました。今回の地震は昭和39616日に発生した新潟地震を文京区の路上で遭遇した時の光景を思い出させてくれました。               巨大地震に伴う大津波災害は千年に一度の自然災害で手の打ちようもありませんでしたが、福島原発事故は、前々から大津波があることを学者が指摘していたのにも関わらず、それを過小評価して何ら対策を打って来なかったことによる人災事故と言わざるを得ないのです。今回の原発問題は、世代交代で風化し始めている広島・長崎原爆の恐ろしさを、日本国民に対して再認識させ「原発脱却」に目を向けさせてくれました。私達も電力の便利さに慣れ切って無関心でいる間に、地震国である日本の海岸線近くに54基の原子力発電所が建設されているとは私も知りませんでした。私も無関心だった反省を込めて、大江健三郎さん達が主催する「さようなら原発」集会に参加し、一千万署名を市民の会が呼びかけた「脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める全国署名活動」にも参加しました。今回の原発事故は、エネルギー源に対する考えの変革を人々に迫ったという意味でも大きく注目されます。第一に原子力発電の問題、第二に電力依存の強さの問題、第三に自動車を始めとした石油燃料の使用量の増加の問題等が挙げられます。こうした問題は、私たちの暮らしのあり方を問い直していく課題を、私たちに投げかけているのです。                                ★この災害に対する国の対応と言えば、国民の念願であった政権交代を一昨年9月に民主党が果たしましたが、鳩山内閣の政権運営の未熟さから沖縄米軍飛行場移設問題はじめ、様々な分野で政治的混乱を招き、批判を浴びて参院選挙では大敗。引き継いだ菅内閣は厳しい国会運営を強いられる中で、国難とも言える東日本大震災と福島原発事故が発生し、その対応の遅れから政権への不評を招き、国民にとって「機能不全」としか映らず、対策が後手に回る日本政府に国際社会の不信感が一層高まっている状況の中で、野田内閣に代わりました。その後も原発事故による風評被害の対策の遅れや避難された方々への見通しのたたないあやふやな説明ばかりで政治不信を増幅させています。政治不信は民主党のみならず国会議員全体にいえる事です。被災地の支援活動でも国会議員の顔が見えてこないことに国民は怒っています。12/16、政府は福島第1原発の原子炉が「「冷温停止状態」になったとして早期の収束宣言で内外の不安を払拭する狙いで発表しましたが、住民の帰還にめどが立たない中での「収束宣言」には国内外から「拙速」との批判が出ています。どうあれ目が離せない事故です。結びにあたり療養中の方々の一日も早いご快復をお祈り申し上げます。(郷土の会 岡村)


福島原子力発電所

さよなら原発集会



何事も積み重ねである

(H23.11.8)

ワープロは出来るがパソコンは出来ない私であるが、定年退職して直ぐに10年間の約束で「職員退職者会だより」の編集を引受けた。というのは定年退職すると職員退職者会加入の勧誘がある。その時に先輩が作成している「退職者会だより」が配られた。見るからに貧弱で見る影もない。退職者会会費が年間3,800円をいただきながら、そんな貧弱な「退職者会だより」を配布されている会員の皆さんは気の毒だと思い、私が編集する方がましだと引受けたのが始まりである。それから約束の10年間「退職者会だより」の編集を行い若手に引き継いだ。                                            ★昭和47年に退職者会が発足し、今年で40周年を迎えることになったので、昨年の定期総会終了後、40周年記念事業として「40周年記念誌」発行することになり、私が編集担当を引受け、毎年発行している「お元気ですか」よりも、一人でも多くの人に近況を書いていただきくために、会員千人の半分500人を目標に呼びかけましたところ、400余の方々に近況をお寄せいただいた。それに加えて編集委員の皆さんにアイディアを出してもらい、この40年間の政治の流れ、経済の流れ、職場の流れ、退職者会の流れ、思い出のギャラリー等に仕分けして120ページにわたる内容と、元同僚による斬新的なデザインの表紙で完成した。一重に会員の皆さんの協力があってこその完成であることを編集担当者としては忘れない。会員の皆様のご健勝をお祈りするとともに、療養中の方々は一日も早いご快復をお祈り申し上げたい。                                     ★残念ながら、退職者会結成40周年の記念すべき2011年は、311日宮城県沖を震源とするマグ二チユード9.0の巨大地震災害と、太平洋沿岸各地に押し寄せた大津波による未曾有の災害の年となってしまった。その巨大地震と津波が東京電力福島第一原子力発電所にも襲い掛かり、全ての電源が破壊され原子炉を冷却する電源確保ができずに水素爆発を誘発させ、放射能を放出する重大な事故が発生し、東北を中心に北海道、関東、中部までの広範囲に被害をもたらした。職員退職者会は、被災された各地の皆さんに対して、会員のご協力を得て、支援カンパを行い、会員のボランティア派遣に取組んできた。                     ★ 一方、私達の念願であった政権交代を一昨年9月に民主党が果たしましたが、鳩山内閣は政権運営の未熟さを露呈し、沖縄米軍飛行場移設問題はじめ、様々な分野で政治的混乱を招き、批判を浴び、参院選挙では野党に逆転を許す結果となりました。引き継いだ菅内閣は厳しい国会運営を強いられる中で、今日の国難とも言える東日本大震災と福島原発事故が発生し、その対応の遅れから政権への不評を招き、国民にとって「機能不全」としか映らず、対策が後手に回る日本政府に国際社会の不信感が一層高まっている状況で推移している。 ★しかし、原発問題は、世代交代で風化し始めている広島・長崎原爆の恐ろしさを、日本国民に対して再認識させ「原発脱却」に目を向けさせてくれました。「さようなら原発」一千万署名 市民の会が呼びかけを始めました。これに応えるべく全国組織の労働組合も「脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める全国署名活動」を実施しています。我々の職員退職者会としても会員に署名をお願いしたところ、大勢の方々から署名を寄せていただいた。高齢者を取巻く状況は、政治空白の状態から何ら進展もなく、当面、高齢者医療制度改革法案の実現に不透明となってしまった。 東日本大震災の復興については全国民の協力と支援を積み重ねて復興していくことが大事である。(職員退職者会40周年記念誌編集担当 岡村昭則)



定年退職後一番の贈物

  私が無事に38年間勤めて定年退職を無事に迎えることができたのも仲間があってこそである。そこで恩返しにと、退職後は職員退職者会の広報紙編集を10年間引受け、昨年末で約束の期間を終えた。この間、65歳からパソコンを習い、広報紙編集もワープロからパソコンへと切り替えることもできた。                                68歳の時、彩の国いきがい大学伊奈学園に入学して伊奈学園のホームページと出合った。学園の専科一期ホームページ委員としてHPに関わっているうちに、ホームページは公開しながら資料の保存機能に勝れていることを知り、これを何か自分のために活用できないか考えた。これまで私が長年にわたって積み上げてきた、登山やスキーの資料を整理して作成した手作り本や専用の写真帳等も私亡き後はゴミとして処分されてしまうことや、山仲間一番の親友「大石さん」と一緒に残した踏み跡集も含めて何とか長く残したいという思いもあって、まず閃いたのは、ホームページ作りに挑戦することだった。その後、学園ホームページ作成講習会に3回ほど受け、失敗の連続と試行錯誤を繰り返して、H22年3月に試行錯誤しながら個人ホームページ「我が青春」を立上げインターネットに載せることに成功した。トップページは「我が青春」とし、登山・スキーなど10項目のボタンを作り、「登山のトップページ」には山仲間一番の親友「大石さん」との踏み跡集「山には友情がある」を掲載して、ここから登山の「日本列島横断山行」・「全国ブロック」・「22年山行」へ繋げるようにして、皆さんに紹介を始めた。                                   その勢いで私が役員をしている退職者会のホームページをも作成して、公開を広報紙でPRしたところ、大きな反響があり、突然、私のホームページを見た元職場のある先輩から手紙を添えたDVDが4枚も送られて来た。手紙には『力作、「我が青春」、HPを拝見しました。とにかく文字の量、写真の数の多さ、構成、行動記録(年表)の緻密さ、それを長い間保存していたことに驚きました。〜〜とにかく岡村君が若い時代を思い切り過ごしていた事が想像できます。長い年月の積み重ねをホームページという形に立ち上げたこと事に敬意を払い、ただ「ご苦労様」とだけでは言い尽くせません。私も頑張って、失礼かと思いましたがホームページ上の写真を借用してDVD4枚(音楽入り)作りました』と記されていた。見てびっくり感動の一言である。               ★すぐさま先輩にお礼状を書いた。『私のホームページに花を添えていただいDVDをお贈りいただきありがとうございました。先輩の時間をさいて私のために長い時間を掛けてDVDを作っていただき、心より感謝申し上げます。また、お手紙の中で私の過ごしてきた生き方を読み取ってくれたことが、涙がでるほどうれしかったです。私は定年退職するときに、心意気で「百句で綴る職場日記」手作り本と自費出版俳句で綴る「我が青春」本を出しましたが、退職後10年も過ぎて振り返ってみると、あっというまの人生で全てが色褪せてしまい、出版したことを後悔していました。しかし、ホームページに出会ったことで、違った世界が開けたので、これまで積み上げてきたものを残していこうと決めるとともに、細々でもいいから体の動けるうちは登山や俳句は続けていき、それをホームページに掲載していくことで若き日からの自分なりの生き方を継続させるように心掛けています。先輩からまた前に進む勇気を貰いました。ありがとうございました。』と。(郷土の会 岡村)


▲▲▲「山には友情がある」が故にHPを開設

★山仲間一番の親友である静岡市の大石さんが亡くなってから8年が経つ。本当に時の流れの早さを感じずにはいられない。片時も彼のことを忘れたことはない。というのは、彼なくして私の南アルプス全山縦走の達成はあり得ないからだ。彼との出会いも偶然がもたらしたものだ。私が三千米峰を登り繋いで日本列島横断山行をしている時、静岡市の安部川流域の大谷ガレで出会い、大谷嶺まで同行してくれた。その時の気持ちが通じ合い15年にわたるお付き合いが続き終わった。                                                     ★彼と一緒に残した踏み跡集(「山には友情がある」2冊)や写真帳は私の本箱に納められており、亡くなってからも年一度彼に向けてエッセイを一本書き加えている。これも私が亡くなればゴミになることも間違いないことだが。彼が病に倒れて登山を諦めた時に、各種のテント、寝袋、アイゼン等の登山道具を私に引継いでくれた。また、亡くなった時にも幾らか残されていた登山道具を形見として持って行ってと彼のお兄さんから申し出が合ったので、登山靴と登山大型ナイフを貰ってきたが、残りはゴミとして処分すると言っていた。彼から引継いだものの多くは、私の職場の山仲間やスキー仲間に使ってもらっている。これも登山を通しての価値観を共有しているからこそゴミにならずに済んだのである。                        ★これまで私が積み上げてきた登山やスキーの資料も長年にわたって整理して手作り本にしたり、専用の写真帳を作って本箱を賑わしてきた。しかし、これも私亡き後はゴミとして処分されてしまう。大石さんと一緒に残した踏み跡集も含めて何とか永く残したいという、私の気持ちも歳を重ねるに連れて強くなってきた。そんな思いでいた時に、彩の国いきがい大学伊奈学園に入学して学園のホームページに出合った。そこにはボタンが幾つもあって、それぞれのボタンを押せば各方面に繋がっていて、新しいページが開く。これなら大石さんとの踏み跡集や、私の山行記録・写真も本箱に眠らせずに、永く大勢の人に見てもらえるのではと直感した。個人ホームページ講習会もあるというので、まずは学園ホームページ委員に立候補して個人HP開設に向けて行動を開始した。                                                  ★その後、学園ホームページ作成講習会に参加して、ホームページとは何ぞやから始まり、ウエーブに載せる手順やその下準備を勉強した。そんな講習会を3回ほど受け、失敗の連続と試行錯誤を繰り返して、H22年3月に試行錯誤しながら個人ホームページを立上げインターネットに乗せることに成功した。それならば、ホームページに物語性をもたせるようにまとめることにしてトップページは「我が青春」として、登山・スキーなど10項目のボタンを作り、「登山のトップページ」には大石さんとの踏み跡集「山には友情がある」を掲載して、ここから登山の「日本列島横断山行」・「全国ブロック」・「22年山行」へ繋げるようにして、皆さんに紹介を始めた。「全国ブロック」を除いて編集は終わっており、現在、3000人以上の人に訪れていただいている。大石さんとの思い出をHPとして残したことを綴りました。HPに掲載したものは毎年使用料を払えば末永くゴミとなることなく、皆さんに見てもらえるので自分として最善の道を見つけたと思っています。是非、私のホームページを訪れてみて下さい。


http://www.olff.net/HP/okamura/

郷土の会 岡村昭則 H23.4.20


★山に来て亡き友偲ぶ秋の暮

(平成21年12月31日)

 今年は自分のライフワークしてきた登山の時間がなくメジャーの山には一度も登れなかった。というのは、 ●横の繋がりとして三月に★いきがい大学春日部学園を卒業しましたが、在学中に社交ダンスクラブを立ち上げ、卒業後もクラブを続行して、いきがい大学校友会連絡協議会主催の「社交ダンスの集い」(フォーメーション2曲)に初参加するため、5月から9月まで22回という特訓を実施したり、四月には★いきがい大学伊奈学園専科一年課程に入学し、ここではさいたま市シニア大学大宮校で学んだことを大いに発揮し、パソコンで専科・郷土知るコースのホームページの充実を図り、学園祭では、学習会を参考に寸劇「振込め詐欺防止」の脚本と演出を手掛け会場を巻き込んで防止キャンペーンを行い、加えて、卒業にあたっては記念の踏み跡を残すことを提案し、記念文集作成の担当者を引き受けたことや、さいたま市シニア大学校大宮校6期校友会のパソコンクラブお世話役と「校友会便り編集」を一手に引き受けているなど横の繋がりの活動が忙しく、     縦の繋がりでは、私が役員をしている★退職者会では、「退職者だより」の編集を一手に引き受けていることや、今年は手分けして85歳以上の98人の方に「声掛け運動として電話訪問」を行うなど、それらに相当な準備と時間が割かれたため自分の趣味の時間も相当カットされことが山に行けなかった一因となっている。  ●しかし、それ以上に寂しかったのは元の職場である都庁のスキー仲間と年一度の懇親登山を計画したものの実施せずに終わったことだ。この懇親登山は84歳の安田さんが定年退職の年に年一度親しい仲間を集めて登山を計画してほしいとの要請があり、私もスキーで恩義を感じているので引き受けて20数年が経つ。今回は安田さんの体調が思わしくなく主役がいなくてはとのことで急遽取りやめになってしまった。これまでも安田さんの不参加は一回あったが、その時は安田さんの親友谷口克己さんが参加してくれたので実施された。その谷口さんが亡くなってからは登山よりも温泉と懇親がメインになったことは否めないが、何とか続けてきたものの、既に私以外の人は山をとっくに離れており、会うたびに出るのは過去の話ばかり「山仲間みな年老いて若き日の山懐かしむ寂しさ深き」で聞き役の私にとっては辛いものがあった。というのは、私は他の人たちと現役時代にはスキーでお付き合いしただけなので話題に乗れないのだ。この会は安田さんを囲む会であるから、安田さんを抜きにしては私も計画をする気はないので、段々と先細ることは目に見えている。本当にこの会の山仲間が本当の山仲間かというとそうではない。この会の人たちとは職場での主にスキー仲間として付き合っているに過ぎない。私が心許した一番の山仲間として、お付き合いしてきたのは静岡市の大石金雄さん以外にはない。安田さんよりも太い結びつきである。大石さんは地味な人だが、この人を抜きにして我が南アルプス完全縦走は考えられないことである。亡き谷口先輩も南アルプスに魅せられたひとりだが、大石さんの南アルプスに残した踏み跡は亡き谷口さん以上あることを思うと、大石さんに感謝せずにはいられない。私の登山人生に南アルプス完全縦走の功績を残してくれた人であるから、何時までも私の心の中で生き続けている。山に登る度に大石さん偲び語りかけている。



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